ワーグナー  楽劇「トリスタンとイゾルデ」〜前奏曲と愛の死

 音楽がなければ生きていけない。趣味で演奏活動をしている立場でも、リスナーのひとりとしても、ごくたまにそんな思いを強くさせる音楽に出会うことがあります。身体の芯に熱いものが込み上げてくるような「トリスタンとイゾルデ」は私にとってそんな曲です。

「『トリスタンとイゾルデ』ほど、危険な魅力を持ち、戦慄的で甘美な無限性を具えた作品は、芸術の全領域を探しても見つからない」──哲学者ニーチェは、その著書『この人を見よ』の中で、「この曲の最初の一音はダ・ヴィンチのどんな芸術の魔力をも失わせてしまう」と述べています。13世紀の叙事詩を原作とする楽劇「トリスタンとイゾルデ」の作曲にかかっていた1854年〜59年、ワーグナーは支援者の妻と恋愛関係にありました。彼は自らの体験を音楽に昇華させたといわれています。

 以下、全曲のあらすじをご紹介します。
 第1幕。イゾルデを、叔父マルケ王の花嫁として送り届ける騎士トリスタン。2人には過去のしがらみがあり、イゾルデにとって彼は仇であると同時に恋しい相手。2人はともに毒薬を飲もうとするが、侍女が媚薬にすり替えてしまう。
 第2幕。愛をかきたてる媚薬を飲んだ2人は、イゾルデの結婚後も逢いびきをする。しかし、幸福の絶頂で、王とその部下に密会現場へ踏み込まれ、トリスタンは部下との決闘に敗れて重傷を負う。
 第3幕。トリスタンの故郷。瀕死のトリスタンはイゾルデの船をひたすら待っている。イゾルデが到着したときについにトリスタンは絶命し、イゾルデも後を追う。

 物語の鍵となる媚薬が、たとえ水であったとしても、トリスタンとイゾルデは狂おしいほどの恋に身を焦がしたに違いありません。性と生は表裏一体であり、生を語ることは死を知ること。単純な物語をここまで官能的な愛の音楽に仕上げたワーグナー。素晴らしいソプラノを迎えて、危険で甘美な芸術のひとかけらを味わって演奏したいと思います。今日お聴きいただくのは、冒頭の「前奏曲」と最後の「愛の死」です。

【前奏曲】冒頭の不協和音が悲劇を暗示します。この不協和音は別名「トリスタン和音」と呼ばれ、音楽史の中でターニングポイントとなった響き。物語の中では「愛への憧憬」のモティーフとされています。苦しみに満ちた問いかけのような旋律の後、「まなざし」のモティーフが延々と登り詰め、爆発するように続きます。
【イゾルデの愛の死】静かなバスクラリネットとソプラノのソロで始まります。不安定な前奏曲から始まっためくるめく情愛の螺旋は、オペラの最後で、寄せては引いていく大波のうねりに似たイゾルデの歌によって浄化され、静かな死をもって解決し、終幕を迎えます。

(コントラバス stella)